Master しがらみ




既に深夜、BARカナン。相変わらず、この店に客はいない。
璃空はすっかり仕事を終えた体で新聞に目を通し、その隣ではには相変わらずルービックキューブを弄っている。
黄色は揃えられたが、赤の面はもう崩れてしまった。二面以上は彼女にとって難しいようだ。
と、ノックもせずに店のドアが開く。入ってくる相手を見たはには満面の笑みを浮かべ、その人影に抱きついた。

「おう、はにかぁ。元気だったかぁ」

現れたのは、千剣・スーヴェンドルフ。トレードマークのロングコートを夏にも関わらず翻し、いつもの傍若無人な態度を崩さない彼は――

「……随分と、汗だくだな」

そう、珍しく、全身にびっしょりと汗をかいていた。

「いやあ、走った走った。久しぶりに運動したらこれよ、もう年かぁ俺? とりあえず、ビールビール! 湖雪のツケで!」

眉間に皺を限界まで寄せていた璃空が、聞こえた名にふと尋ねる。

「……やはり知っていたのか? あの餓鬼がこの街に来ていることを」
「ん、そりゃあね」

あっさりと返事は返ってきた。

「で? 如何するつもりだ。このまま、また何も言わず去るつもりか」
「……んだよいつになく優しいじゃねーか。何お前宗旨変えした? 昔は復讐だのなんだのってギラギラしてた奴だったのに、いや歳は取りたくないねぇ〜」
「帰れ!」

険悪に、というより一方的に璃空が不機嫌になり怒鳴りつける様相に、喧嘩しないで、とはにがおろおろしている。
千剣は彼女を安心させるように、その金糸の頭をぽんぽん撫でると、随分と静かな声で言った。

「逃げねぇよ」

沈黙。

「もうちょっとみてぇだから、暫くこの街に居るわ」
「……そうか」

璃空は最早何も言わず、ビールのジョッキをだん、とカウンターに置く。

「あの餓鬼にツケて良いんだろう?」
――この店に留め置けということだろう?
「ん、そゆこと」

にやりと笑って、千剣はビールを一気に呷る。

「ぶはーっ! んじゃ、そろそろ行くわ。帰ってくるだろうし」

スツールから降り、軽い足取りで出ようとする千剣のコートは、ぎゅっと掴んで止められた。

「ぅおっと。……なんだよ、はに」

コートの端を掴んだまま、はにの目は泣きそうな風で訴える。
――会わないの?
そんな想いが伝わってくる視線を、僅かに苦笑いして受けて。

「そのうち、会うよ」

それは希望のようで、また確信のようで。
はにも何かを感じたのか、しぶしぶとだが、その手を離した。

「じゃあな」

それだけ言って、千剣は店の外に顔を出し、辺りを確認し――金髪の女性と、白髪の青年が歩いてくるのを遠くから見つけ、「やべっ」と小さく呟き。
そのまま全速力で、すたこらと逃げ出した。






⇒Ending01