承:ある少年の夢幻と悪夢。




「母さま! 母さまぁ! ごめんなさい、出してぇ、出してぇ!!」
叫びすぎてはあはあと息を乱し、少年はぺたりと床に座り込んだ。どれだけ叫んでも、少なくとも明日の朝になるまで
は出してもらえないことを少年は知っていた。
ふと顔を上げる。周りの本棚は少年の背丈の数倍もあり、聳え立っている。窓もどれも高く手は届かなかったが、そこ
からは赤い月の光が降り注いでいた。
その光に包まれると、少年は安心した。本以外で彼を慰めてくれるのは月の光だった。動かない白の月も、ふらふらと
色を変える万色の月も、硬質な輝きを放つ銀の月も、落ち着いた暖かさすら感じる緑の月も、赤の月と同じく人を守護
する青の月も、皆好きだったけれど、一番のお気に入りは赤の月だった。もっと大きくなったら、赤の月の神様にお仕
えしたいと思っていた。母は青の月を信望していて赤の月を嫌っていたから、多分無理だろうとも思っていたけれど。
足首につけられた重い鎖をじゃらりと引いて、少年は部屋の中を歩き、まだ読んだことの無い本を何冊か引っ張り出す。
殆どが難しい、学術的な写本だったが、中には冒険譚や伝承を集めたものもあった。少年は嬉々としてページをめくる。
遥か昔、原初の創造神が降り立った世界。
銀の月と龍との、終わらない戦い。
天空に開いた忌まわしき黒の月と、それを止める為に人に力を授けた双子の月の物語。
どれもとても魅力的で、全てが少年を無限にして夢幻の世界へ導く。
少年は小さく口の中で呪文を紡ぎ、虚空に今まで見たこともない怪物や、英雄達を想像で造り出す。それが彼に唯一許
された、自由だったから。
やがて空中を彩る幻の乱舞がふっと消え、同時に少年もぱたりと身を床に横たえる。ちゃんと師につかず学んだ魔法は、
未熟な少年の身体に負担をかける。でもそうやって意識を失うように眠っていれば、嫌な夢を見なくて良い事を知って
いた少年は、何の躊躇いも無く気絶という逃げを選んだ。明日目が覚めた時には母の怒りが解け、ここから出られるこ
とを望んで。






―――――その日、バドッカ頭地区にて大規模な火災が起こる。
逃げ道のないこの町で、火災は恐ろしい災害となるが、だからこそ厳しく取り締まられている。しかしその火事は、闇
タマットか悪魔信者に密かに計画された放火ではないかと流言が飛び交うほど、突然起こりあっという間に広がった。
頭地区担当の者達だけでは手を回せず、他地区のジェスタやリャノ信者が借り出された。






変な臭いがつんと鼻をつき、少年は目を覚ました。
何が起こっているのか、最初は解らなかった。ただ、酷く熱い。思わず辺りを見回して、窓の外が真っ赤に染まってい
る事に気付いた。月の光ではない、踊る炎によって!
「…っ! 母さま! 母さまぁあー!!」
咄嗟に呼んだのは、やはり母の名だった。少年には、他に頼れる人間などいなかったのだ。しかし母の返事は無かった。
聞こえていないのか、それとも既に―――彼を置いて、逃げ出したのか。
がしゃあん!!
「ひ…!」
炎の勢いに負け、高価なドワーフ製の窓が割れた。そこから飛び込んでくる火の粉は本を犠牲にし、その身体を肥え太
らせていく。あっという間に辺りは紅蓮の炎に包まれた。
「や…助けて、助けて母さまぁ! 怖いよ…熱いよ、ここから出してぇっ!!」
炎から逃げようとして、鎖に足を取られて転ぶ。唯一の出口であるドアは締め切られ、かつ近づけもしない。炎の熱が
鎖を熱し、巻き取った足を焼いていく。
「助けて…たすけてよぉっ…かあさま、かあさまぁ、ごめんなさい…っ、ごめんなさい、ごめんなさいいぃ!!」
恐慌する頭で、少年は必死に考えていた。これももしかしたら、母の罰なのかもしれない。母の言うことを聞かずに不
興をかったから、今こんな恐ろしい目にあっているのかもしれない。だから、早く母に謝って怒りを解いてもらわなけ
れば。
「っげほ…げほっ! ゆるして…かあさまぁ…ごめん、なさい…」
煙に巻かれ、咳き込みながらも、朦朧とした頭で只管に許しを乞うていた。