Dilemma.
掌に力を集中する。
物理法則的に有り得ない力が、熱の塊となって収束していく。
それを頭上に掲げ、井坂は目の前に立ちはだかる1人の女を睨みつけた。
睨む、と言っても憎しみが篭っているわけではない。ほんの僅かな苛立ちと、彼自身も気づかない別の何か。
そんな視線を受けて、そして彼の構える絶対的な力を目の前にして、
それでも彼女は、一歩前に出る。
それを見て、本当に珍しく、井坂は一瞬だけ意識を過去に飛ばした。
飛ばさざるを得なかった。
×××
ピーッ、とパソコンの電子音がエラーを告げて、眉間の皺を深くした。
数式は間違っていない。証明も間違っていないはず。それなのにエラーが出る。レネゲイドという正体不明のウイルスを
解析するといつもこうなってしまう。
井坂にはそれが不快で仕方無かった。彼が欲しいのは、明確な塩基配列、そのひとつひとつが人体に与える影響というた
だ1つの結論。無論科学というものを突き詰めれば曖昧しか無いことも彼は理解している、それでもこの実験結果のふり
幅は大きすぎた。
最初の実験で起きた結果が、次の実験に全く適応されない。何かが意志を持って改変させているのではないかと思うほど
に、レネゲイドウイルスの動きというものは出鱈目だった。
―――自分の能力を使った実験ですらこの始末だ。忌まわしいとしか思えない。
やはりこのウイルスは、人類にとってメリットよりもデメリットの方が多すぎる。そしてメリットを増加させるよりも、
デメリットを削減させる方が成功する確率が高い。
即ち、レネゲイドウイルスの完全なる消滅を。
不可能とされている。だが、可能性はあった。井坂の力ならばその確率を限界まで上げることが出来る。不確定要素を限
界まで削り、思い通りの解答を手に入れることが。
その為にUGNを辞し、その不倶戴天の敵であるFHに身を置く事を決めた。無論FHとて「レネゲイドウイルスの無く
なった世界」など望んでいない、ただ井坂自身が実験の効率が良い場所を選んだだけだ。
青白い画面を睨み続けていた井坂は、眉間の皺を伸ばさないまま、目の間を少し揉んだ。目を閉じている僅かな間に、こ
つんと陶器がデスクを叩く音がする。
それをもたらした相手を推測して、最初の仮定を有り得ないと否定する為僅かな時間を有した為、礼の言葉が若干遅れた。
「お疲れですわね。少しお休みになったらいかがですか?」
「済まないな、クラリッサ」
感情など微塵も篭っていない礼だったが、コーヒーカップを運んできた女性、クラリッサは笑って首を振るだけで答えた。
「お気になさらず。私達にとって貴方は最後の希望なのです」
事実であった。クラリッサもまた、かのウイルスによって改変された自分と世界に絶望した1人だった。彼女自身も研究
に研究を重ねて、「レネゲイドを殺すレネゲイド」を持つ子供を自らの胎を持って産み出すことに成功した。残念ながら
その子供は一旦脱走したが、つい先日、北国の兎追市に潜伏している事を突き止めた。あの子供の力を覚醒させれば、レ
ネゲイドの全滅という絵空事は真実になる。
そこまで思考して、井坂の眉間にまた皺が寄った。連動して、現在その町にいる古馴染みの顔を思い出してしまったから。
しかし彼の不機嫌な顔は日常茶飯事だった為、クラリッサはその差に気づくことは無かった。
「どうぞ、根を詰めすぎないようになさって下さいね。実働部隊は私とアハトにお任せ下さい」
「ああ」
また一礼をして、クラリッサは下がっていく。井坂はそれを見送ることなく、ドアの閉まる音がしてから僅かに息を吐く
に留めた。
つい先刻、運ばれてきたコーヒーから浮かんでくる湯気を見詰める。運んできた相手を、一瞬だけ別の人間だと錯覚した。
思い至った相手が、そんな面倒な事をしたことは片手の指で数える程しかないのに。
『んな辛気臭い顔で唸ってても結果変わるわけじゃないじゃん。てゆーかお腹空いた。食事奢れ』
もう聞いたのは数年前になる、気だるげな声が思い浮かぶ。思ったよりも鮮明に。そしてまた、此度の作戦地域に彼女が
居る事を鑑み――――
その思考をカットした。椅子の背凭れに深く体重をかけ、煙草に火を点ける。作戦立案の為に不要な思考を早めに寸断す
るのは、彼にとっては当然であり容易いことだった。
まずは<狂い夜の黒兎>の確保を最優先する。あの街に駐留しているFHセルを連動し、包囲網を。懸念事項はセルリー
ダー<動かぬ太陽>がクラリッサの嘗ての良人であり、<狂い夜の黒兎>の実の父親であるということ。彼にはかの実験
体を、研究所から逃がした容疑があり、その結果現在は閑職である兎追市に身を置いている。もし彼が<狂い夜の黒兎>
が自分の娘であると気づいているのなら、あまり大きな成果を期待することは止めた方が良いだろう。
UGNの支部も決して大きな所ではないが、支部長である<狂い夜の黒兎>の重要性は<リヴァイアサン>も良く理解し
ている筈だ。派手な動きを見せれば日本支部が動く。他のFHセルの力を借りることが難しい自分達にとって、それだけ
は避けなければいけない。
注意すべきエージェントは優秀な秘書兼ボディガードである<フェンリル>、そして―――<煙の末(スモーカー)>と
名乗るもう1人のUGNエージェント。彼女の手の内は理解している、それほど恐れるべき実力があるわけでもない。
ただ、知っている―――彼女が、どうしようもない面倒臭がりだということを。そのくせ、情が厚いということを。気の
合う上司である少女を、見捨てることだけはしないということを。
再び、思考をカットする。考えても仕方の無いことに思考が飛ぶのを防ぐ。考えるべきは対策であり、解りきった情報を
反芻する必要は無い。
目の前に現れたら、排除する。実力の差は歴然。簡単に退けられる。―――殺す事が出来るなら。
思考をカット。不可能ではない。シュミレートは勝率100%を弾き出すだけのデータが揃っている。それを実行に移す
だけ。彼女を、この手で。
思考をカット。不必要な情報が混じる。目の前に立った時の彼女の表情など、シュミレートする必要は無い。
思考をカット。有り得ない結論が出る。計算違い。いっそ最初から出逢わなければ良かったのだ。
思考をカット。覆せない結果を考えるのは時間の無駄でしかない。迷走する思考が、更に眉間の皺を深くして―――
ぴしり。持っていたカップの取っ手に皹が入る。
「計算違いだ」
珍しく、声にまで不機嫌を滲ませて井坂は呟いた。無意識のうちにレネゲイドの力を発現させてしまったらしい。
それと同時に、小さなアラーム音が作戦開始の時間を告げる。これより兎追市に於いて、<死神>確保の為の第一段階行
動を開始する。デスクの上に放り出していた携帯電話を掴む。メモリを見、未だ消していないそのアドレスを確認して、
井坂は部屋の外に出る。控えていた実戦部隊長であるアハトが、最敬礼を持って出迎えた。
「行くぞ」
「Ja,fuhrer」
隊長、と呼びかけられた声を背で受けて、振り向かずに井坂は歩き出す。
一度決めてしまった道を違えるつもりはないし、決めてしまえば思考を遊ばせることもない。
ただ只管に、たった一つの目的を目指して進む。必要なものは必ず手に入れるし、必要の無いものは廃除する。
だから、彼女のことは考えない。
必要だけれども、排除しなくてはいけないものだから。
×××
一瞬、思考が断裂した後。
温もりが自分の体を拘束した。
自分の力が抜けるのを自覚する。掌に収束していた焔が、霧散していく。
やはりレネゲイドウイルスの動きは理路整然と説明出来ない。こんな曖昧な危険物を、放っておくわけにいかない。
その筈なのに、間違いないのに。目の前に確保すべき素体がいるのに、動けない。
強く縛されているわけではない。
ただ、荒事をするには少し細い両腕が、自分の背に回っているだけだ。
ああ、やはりこんな女に出逢うべきでなかったと、埒も無い後悔が胸を焼く。
あの時から気づいていたのだ、彼女を殺す事だけは、自分には不可能なのだと。
敗北を認め、井坂はゆっくりと瞼を閉じた。
温もりは、それでも変わらず彼の側にあった。