>ミドル・フェイズ1−1 【裁きの雷<バベル>】
前述の通り、史明は高校生であると同時に矢作グループの子会社の一つ「矢作製薬」の社長業を任されている。ちなみ
に小売店に当たる「薬のシンノスケ」は弦月市で一番の売り上げを誇るドラッグストアである。
本社である弦月駅前の高層ビル、社階のさらに上にある社長室にはプライベートルームが付属しており、史明は普段こ
こで生活と仕事を行っている。
「ただいまー!」
元気な声をあげて、豪華な革張りのソファや重厚な木製のデスクが並ぶ部屋に入る。ぽいっとソファに躊躇い無く学校
鞄を投げて、デスクの前の大きな椅子にひょいと飛び乗る。
「お帰りなさいませ、史明さん。今日は如何でしたか?」
鞄を嫌な顔一つせず自然に拾い上げ、史明に尋ねるのは眼鏡の似合う伊達男、三崎弘介。史明がこの会社を興してから、
ずっと秘書として付き従ってきた懐刀である。史明は身体が埋もれそうになる椅子の上に座ったまま、笑顔で頷いた。
「んー、楽しかったよ! 文化祭の出し物決まったし!」
「それは宜しかったですね。何をなさるんですか?」
「ふっふっふ。当日まで秘密。オレとキョーちゃんが主役だから、絶対見に来るよーに!」
「はい、必ず」
まさか自分が忠誠を誓う社長が、お笑いコンビのボケ役を素でやるとは知らず、三崎は笑顔で頷く。これでツッコミの
相手が容赦の無い鉄拳を使うのだと理解していれば、今すぐ京也の家に押しかけて直談判をかけるだろう。それほどに
三崎にとって、史明は絶対なのである。ちなみに史明はそれを見越して内緒にしたのではなく、単に秘書を驚かせたい
だけである。
「会社で何か変わったことあった?」
「ええ…申し上げにくいのですが、一つ。こちらをご覧下さい」
ふと三崎の顔が曇り、懐から一枚の紙を出してデスクの上に広げる。どれどれとそれを覗き込んだ史明の目も、すっと
真剣味を帯びた。
【 アナタガタ ノ ツクツタ クスリ ハ
ワレワレ ニ トツテ トテモ ヤツカイデス
ワタシ ニ スベテ ワタシテ クダサイ
シヤチヨウ ノ オトモダチ 619ニン ト
コウカン デス
UGNニハ ドウゾ ゴナイミツ ニ
エッグ・マスター】
「…わお。脅迫状ってやつ?」
「はい。恐らく狙いは、先日完成した抗レゲネイド剤のサンプルと調合表でしょう。情報隠蔽には全力を尽くしていた
つもりでしたが」
「ま、あるものをないないって言うのは難しい事だし、しょーがないよ。それより、619人ってさぁ…」
悔しそうに俯く秘書を諌め、史明は言葉を続ける。いつも子供っぽい笑顔が浮かんでいる筈のその顔は、いつになく不
機嫌そうだった。
「はい。鳴鈴高校の、在籍生徒数に合致します」
「…………うー。…取り敢えず、モトコちゃんに報告」
「かしこまりました」
史明の言葉に揺らぎは無い。三崎も眉一つ動かさずその言葉に従い、UGN支部に直通の電話を取った。矢作製薬はレ
ゲネイドウィルスに関する研究や製薬を積極的に行っているので、ホットラインを持っている。
「こちら矢作製薬、三崎です。支部長をお願い致します。……繋がりました」
「ん。もしもーし、シブチョお元気ー?」
『…何の用だ、矢作』
仕事モードに入っている基子は意識的なのか無意識なのか、冷静且つ感情を抑えた口調になる。勿論その事を知ってい
る史明は気にせずに、普段は名前で呼ぶ彼女を役名で呼びつつ、脳天気な声のまま話を続ける。支部長、とちゃんと発
音できずにシブチョ、と聞こえるのはご愛嬌だ。
「あのね、ちょっとピンチ。薬が欲しいんだって、あと作る方法も多分。人質なの全員。ないしょって言われたけどか
けちゃった。でさ、エッグ・マスターって名前知ってる?」
『………筋道を立てて説明を…いや、良い。三崎さんに代わってくれ』
「うん、わかったー。三崎ー」
本人は到って真剣なのだが、言いたい事が全く伝わっていない。史明のこういう言動や行動の度、基子は彼が超高度の
知性を誇る<ノイマン>のオーヴァードであることに非常に疑問を感じる。
そんな電話の向こう側の葛藤を知る事も無く、史明は秘書にぽいっと電話機を投げる。危なげなく三崎は受け取り、立
て板に水の如く解説を始めた。非常に手馴れている。…この手のやり取りはこの主従の間ではいつものことなのである。
「お電話代わりました、三崎です。本日11:28、本社ビルの郵便物に混じって脅迫状と思しき文書が届きました。
目的は、我々が作成した抗レゲネイド剤のサンプルと調合表と予想されます。交換条件に鳴鈴高校の生徒全員を人質に
取るという脅迫文と、UGNに知らせるなという警告が入っています」
電話の向こうで息を呑む音がする。構わずに三崎は冷静に言葉を繋げた。
「差出人名はエッグ・マスターと名乗っています。心当たりはないでしょうか?」
『すぐ調べます。…………確認しました。<エッグ・マスター>ファルスハーツの工作員に、そのコードネームを名乗
っている者がいます』
三崎は勿論、スピーカーフォンから聞こえる基子の硬い声を聞いた史明も僅かに瞠目する。UGNと敵対するオーヴァ
ードの犯罪集団、ファルスハーツに属するエージェント。正しく不倶戴天の敵だ。
「三崎、代わって。…シブチョ、そいつの能力とか得意技とか、解る?」
『…すまない、正確にはこちらでも把握していない。だが、奴が<Σトランス>という薬品を使って、一般人をオーヴ
ァード化する犯行を多数行っていることが確認されている。奴にとって、抗レゲネイド剤は邪魔になる存在だろう』
「名前だけ借りた愉快犯、てことは無さそうだね。悪いんだけどさ、シブチョ」
『皆まで言うな。派手にUGNの兵隊を動かす事はしない。…また、お前達に協力して貰うことになる』
「まかしといて。オレからキョーちゃんには連絡するから、シブチョはイチカちゃんに」
『解っている。…<エッグ・マスター>の情報収集はこちらに任せて欲しい』
「ありがと。よろしく!」
プツ、と小さな音がして通信が途切れ、はあっと溜息が部屋に広がる。
「史明さん、私も学校を警備しましょうか? 私一人ならば史明さんが学校にいる限り、不審な目で見られることは少
ないかと」
社長といえど高校生の傍に常に秘書が付き従うのは如何ともしがたい筈なのだが、何故か三崎には治外法権が与えられ
ている。例えどこにいようと史明がギャーと悲鳴を上げれば0.5秒で現れる、と最早彼らのクラスでは伝説と化して
いるのだ。
そんな忠実すぎる秘書の行動に疑問を覚えることもなく、しかし史明はいつも通りふにゃりとした笑顔を向けて首を横
に振った。
「んーん、良いよ。皆がいるなら大丈夫」
「しかし…」
「三崎の仕事はお薬を守ること。脅迫状出しといて奪いにくるって可能性も無きにしもあらずだし。…相手が本当にそ
の<エッグ・マスター>だったら、絶対薬を渡しちゃ駄目だ」
きっぱりと言われた言葉に、社長限定で心配性の秘書も二の句が継げなくなる。彼が何故、親にかけあってこの製薬会
社を作ったのか、その理由を知っているから。
「…解りました。史明さん、くれぐれも無茶をなさらないで下さい」
「解ってるって。それじゃキョーちゃんに電話かっけよー」
「かしこまりました」
いつもの調子を取り戻したやりとりが、社長室に響いた。
>ミドル・フェイズ1−2 【バタフライ・フェイク】
『…じゃあ、その<エッグ・マスター>っていうヤツが、学校に来るって事?』
「もう既に入り込んでいるかもしれない」
電話の向こうから聞こえる、自分の「親友」である苺花の普段よりややトーンの落ちた声。そのことを申し訳なく思い
ながらも、基子はあくまで冷静に続けた。
「明日から、交代で校内の巡回を行う。貴方にも参加して欲しい」
立案しながら、基子の心には申し訳なさが沸く。
自分は、幼い頃からこの力を手にしていた。史明や京也も、それなりに修羅場を潜ってオーヴァードとなっている。そ
れぞれに瑕や瘤があり、それを背負い続ける為にUGNに協力している。
だが彼女は―――苺花は、つい最近まで何も知らなかった。普通の女子高生として生まれ育ち、この世界の変貌などに
気付いていなかった。巻き込まれ、目覚めざるを得なかった。―――日常を崩壊させた相手に対する怒りと共に。
『大丈夫だよ、トコちゃん』
「―――えっ?」
不意に通話口から飛び込んできた声に、基子は目を瞬かせる。顔が見えない筈なのに、電話の向こうの苺花の声を聞い
ているだけで――――彼女がいつも通りの笑顔を浮かべていることが、何故か理解ったから。
『大丈夫。わたしもトコちゃんもマコっちゃんも、藤倉も矢作も皆いるから。皆で力を合わせれば、そんなヤツ怖くな
い。…折角もうすぐ文化祭なんだから、それまでに解決しなきゃねっ!』
宣言された自信に根拠はない。それなのに、何とその言葉の力強い事か。基子は、正体不明の敵に対する僅かな不安が、
すぅっと消えていくのを感じた。
精神論に頼りきるなど、集団のトップとしては愚考。それでも。
「…そうね。ありがとう、苺花」
まだ支部長の椅子に座っているにも関わらず、彼女の親友として答えを返した。それが強い彼女に対する最大限の誠意
だと解っているから。
『うんっ。あ、そうだトコちゃん、貸したおぎや○ぎのDVD見てくれた?』
「ごめん、まだなの。これから忙しくなるから、文化祭までに見れないかもしれない」
『そっかぁ。うん大丈夫、もし間に合わなかったらわたしレクチャーするから! 絶対知ってた方が笑えるし〜!!』
「解ったわ…楽しみにしてる」
きっとここがUGNの支部長室でなかったら、女子高生同士の、特に特筆するべきものはない電話だと思えるような話
に変わっていく。不謹慎かもしれないが、二人とも電話を切ることを惜しく感じた。
こんな他愛もない生活こそが、彼女達の守りたいものだったからだ。
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