忘れられた神話
660 years ago:
「――何をお考えでありんすか?」
耳元で柔らかく囁かれる声に、彼は覚醒した。
二人で寝転がっても充分空きのある褥の上で、裸のままぴたりと擦り寄っている妻の一人に、顔を覆った布地越しに口付
けてから答えを返す。
「何も」
「まぁ、嘘つき」
くすくすと自分を揶揄する笑い声は嫌いではない。自分にそのような感情を向けてくる相手など、滅多に存在しないから。
「つれなきお方の事でも、考えていたのでありんしょう。その恐ろしき瞳が見えずとも、わちきには解りますえ」
「…そうだな。考えていた」
「当たり」
またくすりと笑ってから、夢魔の妻はゆうるりと眉尻を下げた。
「…忘れられないのでござんしょう」
その目に映るのは、哀れみか、嫉妬か。彼にはいまいち判別がつかなかった。
「忘れるつもりは微塵も無い」
言い切る言葉に嘘は無い。だからこそ、彼の妻は苦笑を刻んで頷くことしか出来なかった。
原初の神の子すら誘惑した自分が、心の一欠けも奪うことが出来ないお方。その素顔を拝見したら、狂い死ぬほどの恐怖
を味わう存在。―――それでもなのか、だからこそなのか、惹かれずにはいられない。
子を為し難い夢魔の自分が、二人も子宝を戴けたのも、この不似合いな想い故であると彼女は思っている。
と、寝所の扉がきぃと開き、隙間から小さな影が顔を出す。その姿を認めて、彼女は呆れた息を吐く。
「まぁ、クユ。あかんよ、部屋にお帰り」
「だってモーティのはなし、つまんないんだもん。とうさま、あそんで?」
まだ生まれて数年しか経っていない息子は、この世の恐怖など知らぬ顔で無邪気に親達のベッドに登る。ふ、と横で僅か
に空気が緩み、彼女には愛する夫が笑ったことに気づいた。
「目付け役を放り出したか? あれもお前を思ってしていること、たまには聞いてやれ」
ゆるりと伸ばした息子の頭を撫でる手は、本当に優しい。嬉しそうに笑いされるがままになる息子の表情を見てもそれが
解る。
――――誰よりも恐ろしく、誰よりも優しい御方。
――――この世の全てを愛しながら、この世の全てを壊すことが出来る御方。
――――原初の恐怖の象徴。
――――混沌の世界を治めるに相応しい御方。
寝台から降りて、あっという間に服を身に纏う彼に、「かえっちゃうの?」と不満そうな息子をそっと抱き寄せ、彼女は
彼のひとの名を呼んだ。
「…また、来てくださいまし。<魔王>様」
返事は無く、彼は一歩踏み出すだけでその場から消えた。
1500 years ago:
いつの頃からと、考えるのも馬鹿らしい程昔より。
天界と魔界は、物質界と呼ばれる地を戦場にして争いを続けていた。
何故そのようなことを、と問われるのならば、それぞれがそういう存在として作られたから、と言うしかない。
創造神は善と悪を作り、互いを打ち消しあいながら存在していくことを命じた。
戦い続け、お互いが疲弊すると停戦し、力を盛り返せばまた始める。その繰り返し。
それが無駄なことだとは誰も思わない。自分達がそういう存在だということを知っているからだ。
天使達の本拠地、天界の神殿は非常に慌しかった。幾度目かの停戦協定を結ぶ為、魔王がこの神殿にやってくるからであ
る。
物々しい警備の天使兵達が並び、天界の重鎮、神の代理であるメタトロンを中心とした大天使達が並ぶ会議室に、やがて
かつ、かつ、と静かに足音が響く。
緊張に静まり返る会議室の内心など知らぬ気に、その足は遅滞なく部屋の前に止まり、自然に開く扉に任せて中に入って
きた。
豪奢且つ重厚な、漆黒の衣装に身を包んだその男は、その顔を全て隠す布を前に下げていた。安堵の僅かな息が、人垣の
あちこちから漏れる。
「<魔王>殿、大儀である」
「お互いにな」
緊張を悟られぬよう声を張り上げた大天使に対し、何の感情も篭らぬ返事が返される。
魔界を統べる王は敵地であるにも関わらず悠々と席に座し、布の下からの視線を議長に向けている。
「これより、264回目の停戦協定を執り行う。1に―――」
いつもと同じ定型文を読んでいく大天使の声は滞ることなく、全ての文を読み終え、その端に調印を捺した。自分の前に
差し出された書を一瞥し、魔王は何の躊躇いも無く顔の布を外した。
「!!」
「ヒィッ――!!」
瞬間、一斉に周りの天使達が慄いた。魔王の姿が、あるものの目には得体の知れぬ怪物に変わり、あるものの目には不定
形のおぞましい闇に変わる。彼らが一番恐怖と思える姿を鏡の如く映し出す、それが魔王が魔王と呼ばれる所以。恐怖の
余り失神してしまったものも少なくない。流石に大天使達はそこまでの醜態を晒す事は無かったが、腰が引けていること
を隠しきれていない。
魔王はそんな天使達に一瞥をくれることも無く、自分の親指を噛み破って血を滲ませ、それを印として捺す。
「これで構わぬだろう」
文書を机の上に滑らせて、もう仕事は終わったとばかりに立ち上がり踵を返す。様式に拘る天使にとっては糾弾されるべ
き行動であったが、無論止められることはなく、寧ろ閉まった扉と共に全ての天使から安堵の息が漏れた。
魔王は、自分の姿が変貌するという自覚は無い。というより、自分の姿を見たことが無い。鏡や水面を見ても、自分の姿
はまるで霧の中に立っているような影しか見えない。
すぐに魔界に帰っても良かったのだが、折角出向いたのに急ぐ必要もあるまいと、神殿の周りを歩き始めた。辺りで優雅
に寛いでいた天使達も慌てて飛び上がり、あっという間にいなくなる。
……遥か昔には、自分も確かにここに居た。もうその記憶はおぼろげになってしまい、思い出すことは難しいが。
原初の天使として作られたのか、原初の悪魔として作られたのか、それも解らない。ただ、創造神が最初に作った命の樹
の根元に生まれ、天使として育ち、悪魔として魔界に堕とされた。
別にそのことを嘆くつもりはない。自分はそのように作られたという事実がある、ただそれだけのこと。
懐かしさではない、ただの物見遊山的な道行だったが、やがて本来なら大天使すら滅多に入ることの出来ない命の樹が生
い茂る楽園の森まで辿りついた。
「――――…?」
恐らく自分もそう眠っていたこともあるのだろう、命の木の根が作る大きな揺り篭の中に、何かがいる。生まれたてにし
ては体がかなり大きい。新しい大天使でも生まれるのかと、興味本位でそこへ近づく。
ひとりの天使、だった。そのように見えた。
産毛のようにしか生えていない柔らかなプラチナの髪は天使に相応しかったが、その体の殆ども同じ色の金属らしきもの
で覆われていた。天軍天使が身に纏う鎧ではない、恐らく皮膚そのものが金属で作られている。背中の羽も柔らかな羽毛
ではなく、金属の輪と棒で構成された重そうな代物だった。
魔王自身とそう丈の変わらない体をまるで種のように丸め、その天使は眠っている。
思わず魔王は、自分の顔を撫でて確認した。恐怖の魔力を封印する布はかけていない。たとえ目を閉じようが眠っていよ
うが、自分の気配を感じれば慄き逃げ出すだろうに――――
と、魔王が逡巡しているうちに、その天使はぽかりと瞼を開いた。透き通った青の瞳がゆらゆら動き、魔王の姿を捉える。
そして、魔王は信じられないものを見る。生まれて初めて、天地がひっくり返るようなという形容に相応しい衝撃を受け
る。
その青い瞳がゆるりと眇められ、天使は笑った。子供のような無邪気な笑みで、魔王を見て笑ったのだ。
「…誰だ?」
天使は両端を引き上げた口のままに問うた。むくりと無骨な体を起こし、ふるふる頭を振りながら。
「…俺を知らぬのか」
我知らず一歩足を下げていた魔王は、呆然としたままの口調で問い返す。こくり、と銀色の頭が縦に上下した。
「その姿は見たことがない。天使ではないのか?」
「……見たところ、力天使と見受けるが。戦場で見たことが無いとは言うまい」
大戦の折には自ら兵を率い、先陣を切っている。否、それ以前に、自分の存在を知らぬものがいることの方が信じられな
かった。魔王の混乱に気づくことなく、天使はやはりおっとりと言葉を紡いだ。
「戦場では、我はなにも見ていない。御前が悪魔ならば、見たことは無いな」
「――――…!」
その言葉で、魔王の記憶が繋がった。
先の天魔大戦、バエルとアスタロトの率いる悪魔と邪龍の混成部隊、魔界一の残虐さと獰猛さを誇る部隊を、たったひと
りの天使が全滅に追い込んだ。生き残ったものの話では、その天使は体の全てを―――頭から足先までを聖別された銀で
覆って、金属の翼を持っていたと。天界の最終兵器、純然たる殲滅システム。その名を魔王が知らぬわけが無かった。
「識天使ミカエル。それが貴様の名か」
「然り。…争ってくれるな、今は休戦中なのだろう? ここは揺り篭、まだ生まれていない天使が大勢眠っている。生ま
れる前から死を定められては流石に哀れだ」
魔王の体に漲った緊張に気づいたのか、最強の識天使はやはり笑顔のままそれをいなした。身を起こし、躊躇い無く魔王
の間合いに近づき、まじまじと顔を見詰めている。―――魔王の顔を。
「悪魔とは皆おぞましい姿をしていると聞いたが、御前は美しいな。本当に悪魔なのか?」
「――――…俺の、顔が。見えるのか」
「見える。戦いの時で無いのなら、何でも見えるぞ。ガブリエルに負けないほど美しい。悪魔、名前は何と言う?」
無邪気に問うてくるその瞳には、恐怖の欠片も見当たらなかった。無意識のうちにもう一度顎を撫でてから、魔王はどう
にか言葉を紡いだ。
「…名は、忘れた。俺を表す言葉は『魔王』のみ」
脅すためなのか突き放すためなのか、それすら解らずに紡ぎだされた冷たい事実の声は、
「では、魔王と呼ぼう、魔王。なればこそこのような天界の奥地まで来れたのだな、納得した」
委細理解し、その上で見せられた満面の笑みに掻き消されてしまった。
端から見れば物凄い絵面であろうと、魔王は密かに嘆息した。
魔を統べる王と天界の最終兵器が、並んでエデンの庭を歩いている。相変わらず魔王は封印を外している為、他の天使はま
ず寄って来ないだろうが…流石に見咎められればただでは済まんか、と一人口の中で呟く。
「おかしいな、普段はこの泉の辺りにニンフ達が大勢いるのだが…どこへ行ったのか」
そしてその原因と共に歩いていることに気づかない天使は、心底不思議そうに首を傾げている。先刻魔王自身に「いいもの
を見せてやる」と言い放ち、ここまで連れて来たのだ。…何故か、拒否することが出来なかった。
「ここだ、魔王。ここから物質界が見えるんだ」
泉にちゃぷりと裸足を浸し、また笑いながら魔王を手招きする。自然に足を進めていき、魔王もそれに応える。波紋の広が
る透き通った水面に視線を移すと、ゆらりと水底が揺らいだ。
「…これは――――」
水面の先に見えるのは、ありとあらゆる物質界の景色。青い空とそれを写す藍い海、雪の積もる岳山、緑の生い茂る密林、
どこまでも続く平原と砂漠、豊かな土地に家と畑を作り、生き続ける人間達。
今まで戦場としか認識していなかった物質界の多種多様な姿に、思わず魔王は目を奪われた。
「見ろ、物質界はこんなにも美しい。我は天界も美しいと思うが、ここまで沢山の美しいモノは見たことがない」
「あぁ…」
我知らず、答えを返していた。天界のような整然とした優美さも、魔界のような禍々しい淫靡さも無いが……雑然とした塊
にしか見えぬのに、これほどまでに美しい。
「…ありがとう」
「何?」
急に礼を言われて、隣に視線を戻すと―――兵器である天使は、本当に嬉しそうに笑っていた。
「同意してくれたのは、魔王が始めてだ。他の者は、物質界とは自分達が治める地であり、人間をそこに住む家畜としか思
っていない者ばかりだ。…魔王は、優しいのだな」
「何を、馬鹿なことを」
意思を持って生まれて後、優しいなどと形容されたことは初めてだ。混沌を統べる者、全ての欲望の支配者。残虐なる無慈
悲の王、恐怖そのものの体現者。自分を表す言葉などそれだけで事足りていたのに。
それなのにこの天使は、誰もが慄くその顔を見詰めて、花が咲くように笑って言った。
「魔王は優しい。そうでなければ王になどなれるものか。自分以外の者を守れぬものが、王になどなれるものか」
真摯な言葉に、魔王は動けなくなった。そんな風に思ったことも、そんな風に指摘されたことも無かった。
混乱したけれどそれ以上に、自分に混乱を与えたこの天使ともっと言葉を交わしたくて―――しかしその望みは、天を劈く
喇叭の音で遮られた。
それは、天界と魔界の停戦をつげる、三千世界に轟く喇叭。
「…もう、眠らないと駄目だ。戦争が終わったのなら、我は眠らないと駄目だ」
残念そうに踵を返しかけたミカエルの手を、咄嗟に魔王が掴む。ただ、もっと話していたいというささやかな希望は、肉の
焼ける音と臭いで止められた。
じゅわっ…!
「「!」」
同時に、相手から距離を取った。聖別された銀の体は、魔の者にとって身を焼け落とす毒。魔王の掌の上には、生々しい火
傷が出来ていた。
「…本当に、魔物なのだな。……痛い、だろう」
驚愕の表情が悔恨に塗り替えられていく様に、何故か魔王の心臓が疼いた。
「痛くはない」
「痛いだろう」
「痛くは、ない。…大丈夫だ」
まるで子供を慰めるような諭しの言葉だったが、天使はもう一度笑ってくれた。
「…やはり、魔王は優しいな」
先程と同じ音の声だったが、その笑顔は切なかった。
「戦場で遭い見えることが無いように、祈っている」
「待て…!」
ばさりと金属の翼を閃かせ、天使は飛び去った。また、あの木の根元で眠るのだろう。また再び、天魔の大戦が起こる時ま
で。
掌に出来た火傷はあっという間に癒えていたが、魔王はその掌に思い切り自分の爪を突き刺していた。
1200 years ago:
あの奇妙な邂逅から数百年は経ったであろうある日。
約定を破ったのは天使が先か悪魔が先か、いがみあう二つの勢力は再び戦に入る。
血の気の多い悪魔達は、どれだけ天使を血祭りにあげることが出来るかと息巻き、我先にと戦場へ飛び立っていく。
しかし―――常時もならば先陣を切る魔王が、宮殿の玉座に座ったまま全く動かないことが、彼らの活気を削いでいた。
「どうなさったのですか、魔王様?」
「何がだ」
冷たく重い声に膝が折れかけるのを如何にか堪えて、側近の一人アスモデウスが問いかける。
「戦場には出られないので?」
「……………」
封じの布の下からでも睨まれたことが解り、アスモデウスは慌てて平伏した。これ以上問うたら、次の瞬間自分の首と胴が
離れてしまっているだろうという予測から。魔王は詰まらなそうに視線を前に戻し、虚空を彷徨わせる。
彼自身、何故動かぬのかという疑問を自分に提示していた。何時もの通り、側近達を率い、自ら剣を取って戦場に出ればい
い。その姿を全ての天使に晒して駆け抜ければ、それだけで天軍は兵を退くだろう事も予測がつく。
それなのに、出来なかった。心の奥底に残っているのは、あの日あの天使と共に見た、物質界の見晴らし。そしてそれを見
て笑っていた、あの笑顔。
自分が動けば必然的に物質界を蹂躙する。恐らく人間達にとっては、天変地異に等しいだろう。その事を考えると、何故か
腰が重くなった。
慈悲ではない。自分にそんなものがあるとは思えない。ただきっとあの天使は、また泣きそうな顔をするのだろうと思った。
それが、ほんの少しだけ、嫌だと思った。
(お前は俺を優しいと形容したが、それならばお前の方が――――)
バターン!
思考が、扉を蹴破って飛び込んできた伝令によって打ち切られた。無作法を咎められる間も無く、伝令が引き攣った叫び声
をあげる。
「識天使ミカエル、顕現しました!!」
その瞬間、誰よりも早く立ち上がったのは、魔王だった。
自らを覆う封印の布を取り払い、側近達が恐れ戦く前に翼を広げて飛び上がった。まっすぐに、戦場へ向けて。
戦場は、有り得ぬ程の惨状を呈していた。
地を埋めているのは、遍く悪魔の亡骸ばかり。まさしく足の踏み場も無いほどに、骸で埋め尽くされている。
空に浮かびそれを睥睨しているのは、たった一体の天使。否、見ているのかどうかも解らなかった。
銀色の鎧兜が全身を覆うばかりでなく、その目鼻も口も耳も、銀の細工で封じられている。何も見ず、何も聞こえず、何も
感じず、ただ敵を殲滅するだけの兵器。
「―――だからか。お前はあの時」
ざくり、と血に塗れた大地を―――蹂躙された物質界の大地を踏み、魔王が立つ。共の者はいない。空を見ると、他の天使
達も姿が無い。恐らくあの天使は、自分以外のものを殲滅するためにしか、動かない―――動けないのだろう。
そこに彼自身の意思等無い。死なぬ為には殺すしかない。それが例え、心を通わせた相手だったとしても。それによって、
愛した場所を自らの手で荒らさなくてはならなくても。
「―――哀れな」
躊躇わず、背負っていた反りのある大剣を抜き放つ。所詮自分も彼も、神の木偶でしかない。なれば終わらせてやるとばか
りに、魔王は12対の翼を広げ、空に向かって飛ぶ。
キュイイ、と僅かな音と共に、金属の首が魔王を捉える。両腕に下げた大経口の重火器を向け、迎撃しようと迎え撃つ。
キュオン!! ギィイン!!
銃口から打ち出された光の塊を、剣でいなして弾く。あっという間に間合いを詰め、剣を振り被る!
ガギュインッ!!
黒い刀身が僅かに銀を傷つけるが、相手は全く怯むことなくゼロ距離で射撃を敢行する。
「――舐めるな!」
しかし魔王も怯むこと無く、その銃口を掌で押さえ込む。そのまま光が発射され―――銃身の中で爆発した!
ズガンッ!!
「く…!」
流石に腕に来た衝撃に、魔王も眉を顰める。これだけの威力ならば、自分以外の魔物はとても耐え切れないだろう。だらりと
腕が垂れ下がり、暫くは使い物にならないだろうことは容易に想像がつく。
相手の方はやはり何の動揺も無く、使い物にならなくなった銃器を放り捨て、もう片方を構える。させるかとばかりに魔王は
刃でその銃身を叩き落す。
「―――…」
武器を封じられた天使は、躊躇わずその拳で殴りかかってくる。顔面に向かってくるそれを紙一重でかわし、魔王は素早く剣
を鞘に納めると、残った片方の掌を相手の顔面であろう部分に突きつける。
「吹き飛べ」
世界を捻じ曲げる命令が、その口から放たれると同時。
バキィン!!
掌から放たれた不可視の波動が、天使の身を覆った鎧を弾き飛ばした。本来なら首を吹き飛ばせるはずの威力だったそれは、
相手が硬すぎたせいか或いは彼自身の心の動き故か、それだけの結果に留まらせた。
その下から現れ出でたのは、鎧と同じ色の産毛のような髪と、驚愕に見開かれた透き通った青の瞳。
「ぁ―――――」
薄い唇から漏れたのは、驚愕の声。血の気の引いたその顔を見て、また魔王の心臓が疼いた。
―――ああ、違う。そんな顔をさせたかったわけじゃない。
「あ・あ・ああああああああああああ!!?」
「――――ミカエル!」
両手で頭を抱え、天使は魂が千切れるような絶叫を放った。眼下に広がる地獄絵図と、目の前にいる傷ついた魔王、それら全
てを引き起こした存在が自分であると言う事実に、ずっと銀の殻で守られていた無垢なる天使は耐え切れなかった。
理性を失い落ちていく銀色の体を追い、魔王はかの者の名を呼んで空を切った。
落下を続ける腕を掴み、自分の腕の中に抱き止め、ブワッと風を巻き起こしてブレーキをかける。やはり自分の体は抱きこん
だ聖なる者によって焼け爛れていくが、構わずその場から飛び去った。
戦線を離脱し、暫く飛んだ後。漸く羽を休められそうな川原を見つけ、そこに舞い降りた。腕の中の体は未だ細かく震えてい
る。宥めるようにそっと、まるで自分の子にするかのように魔王はプラチナの頭を撫でてやった。じわりとやはり皮膚が痛む
が、その動きを止めない。肉の焼ける臭いに、天使の方が先に気がついた。虚ろだった青い目に理性の光が戻ってくる。
「止め…駄目だ、止めてくれ、魔王…お前が、」
「黙っていろ…。大丈夫だと、言った筈だ」
身じろぐ体を腕の中に閉じ込めて、なおも撫で続ける。むずかるように首を振っていたミカエルも、じきに大人しくその身を
預けた。それほどまでにその腕が、心地良かったから。
戦中とは思えないほどの穏やかな時の中。やがて、天使がぽつりと口を開いた。
「…見るなと、言われていた」
「ああ…」
「お前は見る必要が無いと、主より言われていた。見ればお前は弱くなるから、見るなと―――…大戦を勝ち抜く為には絶対
に、お前の力が必要だと」
また、銀色の肩が震えだす。魔王の手がゆっくりとそこを撫で、震えを止めてやる。
「知っているつもりだったんだ…見て初めて気がついた…我は何も知らなかった…! 知らないまま、全てを壊して、殺して、
御前まで―――!!」
その瞳から透き通った涙を零し、ミカエルの方から魔王に抱きついてきた。驚愕は一瞬で、魔王もその体を受け止める。故郷
から遠く離れた物質界の片隅で、天使と魔王は互いの身体をしっかりと抱きしめ合った。
「これは…この感情は、何だ!? 主の御心に逆らう等有り得ない、それでも我はこの世界を壊したくない…御前を殺したく
ない…!」
「…俺もだ」
耳元で囁かれた言葉に、はっとミカエルは相手の肩に埋めていた顔を上げた。目の前の魔を統べる王は、ほんの少しだけ瞳を
眇めてこちらを見ていた。
「俺自身も、有り得ぬと思っていたが。如何にもお前に惹かれて仕方が無い。俺の存在が全ての天使と全ての世界をいずれ滅
ぼすとしても、お前だけは…失いたくない…」
今まで負の感情など持ったことは無かったのだろう、無垢なる天使の悲痛な叫びを聞いて、自分の心が定まった。初めて出会
ったあの時より、迎える妻の何処かしかに彼の面影を求めてしまっていた事実から、たった先刻、殺そうと思っても力が入ら
なかった自分の腕までも、全てに納得がいった。
自らの在るべき理から外れていても、目の前のこの存在が、愛しいと思ってしまった。
そう思ったら、行動に移すのは早かった。自分の欲に正直なのは魔王の面目躍如か、自然に相手の顔に自分の唇を近づけてい
た。
「………っ?」
何をされたのか解らないらしく、青い目が間近で瞬く。そんな仕草すら愛しく感じ、自分の感情の奔流に戸惑いながらも、魔
王は行為を止めるつもりは無かった。
―――神よ。裁きたいのならば裁けば良い。俺はこの存在を離すつもりは毛頭無い。
神の木偶として生きてきたけれど、それでも自分は魔王なのだ。自らの欲望に身を任せぬ<魔王>など笑い話にもなるまい。
「…今、何をした??」
唇を離すと、ぽかんとした顔でミカエルが問うて来た。
「解らなかったか?」
「解らなかった…」
「もう一度してみるか?」
「…うん」
こくんと素直に顎を引いた相手に、遠慮なくもう一度口付けた。鎧に守られていないそこは柔らかく、自分を拒むことは無い。
しかしその身体を引き寄せた腕は、やはり新しい火傷を作った。
「ぁ…駄目だ、魔王、御前が傷つく…」
「構わん」
「駄目だ、駄目―――ッ」
宥めるように眉間に落とされ、或いは瞼を舐める唇に、天使はひくりと身を縮める。静止の声を封じ込め、もう一度抱き寄せ
ようとした時――――空が割れた。
ガカッ!!
「「―――!!」」
天地を揺るがす稲光が、彼らの間に落ちてくる。咄嗟に身を離し、地面を転がって避ける。
「主、よっ…」
「―――まさか」
同時に驚愕の声を唇から漏らす。ミカエルは多分に怯えを含ませ、魔王は堪えきれぬ苛立ちを噛み砕けずに。
「この身を地に堕とす時ですら何事も言わなかった貴方が―――今更支配者を気取るか!」
魔王の叫びに、しかし天は応えない。ただゴロゴロと天を鳴かせながら、裁きの光を彼らに向けている。
「止め――申し訳ありません、主よ! 咎は全て我が受けます故、どうか情けを―――!」
「ミカエル!!」
翼を広げ、天へ向かって飛び上がるミカエルを、魔王が追って手を伸ばす。それに気づき振り向いた天使は、一瞬自分の手を
伸ばしかけ―――何かに怯えるように首を振ると、その手を引き戻した。
「――――…!」
魔王は、その顔を何度も見たことがあった。自分の顔を見て、恐れ戦き、逃げていく姿を――――
ガカカッ…!
二人の動きが止まった瞬間、白い光が網膜を焼き。
魔王が視力を取り戻した時には、そこには誰も――――いなかった。
「――――…俺が、恐ろしいか」
誰にも聞こえぬ問いをぽつりと呟き。魔王は自らの顔に、ぎりりと爪を突き立てた。
有耶無耶のまま戦は終了し、再び停戦協定が結ばれる。
しかし協定を結ぶ場所は物質界に移され、天界の扉は硬く閉ざされ、魔王ですらも容易に入ることは不可能になった。
これより1000年以上の間、天魔の大戦はなりを潜める。他ならぬ魔王が、それを禁じたからだ。戦が起きれば再び傷つい
てしまうだろう、相手のことを想ったが故に。
表向きは争うことなく、それ故に物質界は反映を続け―――やがて新しい転機が訪れることになる。
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