35 years ago:

かつん、とブーツの踵が石の床を叩いた。城門の前に立っていたインプ達が、にわかにざわめく。
「なんだ貴様! ここは魔王様の宮殿だぞ!」
「ええ、知っているわ。通して頂けないかしら?」
すらりとした長身で、ブーツを履いた女がいっそ優雅といっていい仕草でインプに乞う。小悪魔達はひそひそと顔をくっ
つけ合い、何事かを算段している。
「どうする」
「あいつ人間だぞ」
「匂いで解る」
「通す必要はない」
「俺達で食ってしまえ」
「そうだそうだ」
欲に塗れた視線がぐるりと女に向かったその時、既に彼女はビロードの手袋を外していた。腰元のポーチから口紅を取り
出し、露になった手の甲に何某かを書き込む。
インプ達が首を傾げているうちに、書き込まれたその印―――<光>の意味を持つ呪印が、鮮やかに輝きだす。
「もう一度言うわね。―――通して頂けないかしら?」
その拳をぎちりと握り締め、女はいっそ鮮やかににっこり、と笑った。





どがんっ!
会議中に響いた爆音、というか破砕音に、諸侯が色めきだって立ち上がる。一番奥の席に座している魔王は、僅かに布の
下の眉を顰めただけだったが。
「何の音だ!」
「敵襲か!?」
『待て、止めろ!』
『そっちは―――ぎゃああー!?』
部屋の中の騒がしさをかき消す様な悲鳴が外から聞こえ、ばたーん!と扉が開かれた。原因である黒こげになった衛兵が、
べちゃりと床に落ちる。剣呑な目が一斉に、狼藉者がいるであろう廊下に向かう。
「…あら、失礼。お仕事中だったのかしら?」
入ってきたのは、金の髪をさらりと背に流す美しい女だった。持っているのはトランク一つ、見た目には武器の一つも持
っていない。
しかし魔界の者達は別の意味で驚愕していた。まさかこの魔界の最奥にある魔王の宮殿に、人間が入り込むなど前代未聞
だったからだ。人間は自分達の餌に過ぎぬというのが、悪魔達の常識だった。
「何者だ!」
「殺せ殺せ!」
血の気の多い悪魔達が我先にと牙を剥き出す中、女は優雅にスカートの裾を抓み、礼をしてみせた。
「ご無礼に関しては、お詫びするわ。でもこのドミニオンでは、こういう力こそが礼儀ではなくて?」
そう言いながら、手に紅で刻んだ呪印を見せる。刻まれた魔力の強さに、公爵たちが油断無く迎撃体勢を取ったその時―
――魔王が口を開いた。
「確かに。ここは力こそが礼儀(ルール)。強き人間の女よ、何用か?」
「ま、魔王様!」
「このような輩等魔王様の手を煩わせるほどでは―――」
「…貴方が、魔王?」
流石の女も、僅かな驚きを頬に浮かべる。椅子から立ち上がり静かに近づいてきた魔王に、改めて礼を取った。
「お初にお目にかかります。私の名は、イヴァーヌ・カーライト。人間の世界では少々名の売れた魔術師の家系、その末
裔よ」
「寡聞にして聞いたことが無いな。お詫びしよう」
「お気になさらなくても宜しくてよ。貴方方にとっては人間など、地べたの蛆虫にも等しい存在でしょうから」
穏やかに会話を交わす魔王と人間の女に、他一同は呆然としている。そんなギャラリーに構わず、イヴァーヌと名乗った
女は自分の目的をあっさりと吐露した。
「私の家系には代々、別のドミニオンへの扉を開く秘術というものがありますの。それを使いこなす程の修練は積んだの
で、試しに魔界まで辿り着いたはいいものの、それ以外に目的がありませんでしたので。取り敢えずは、人の身で初めて
<魔王>とやらをこの目で見た存在になろうかと思いまして、足を伸ばした次第です」
「ふむ。つまりは物見遊山と言ったところか」
「力試しも兼ねていますわね」
成程と頷いた魔王の結論をイヴァーヌが補足する。何とも型破りな人間にして、魔術師である。
「人間がそれほどまでに魔の力をものにするとは。脆弱な存在だとばかり思っていたが、考えを改めなければなるまいか」
「いいえ、大部分の人間は未だ脆弱と解釈してよろしいわ。私はただの変り種です」
言葉だけなら自分を貶めるようにも聞こえるが、胸に手を当てて宣言するその仕草は、自分の力と意思を誇りと思ってい
る証拠だ。初めて見る人間を、好ましいと魔王は思った。その性格と共に、自分に向けられる笑顔と、透き通るような美
しい青い瞳も悪くなかった。
「気に入った。イヴァーヌ・カーライト、俺の妻となれ」
ざわっ!!と周りを固めていた魔族達がざわめく。人間を妻と迎えるなど前代未聞、いくら魔王様でもそれは―――と囁
き合うギャラリーに対し、イヴァーヌは僅かに形の良い眉を顰め―――一歩前に出て、呪印を刻んでいない方の手を振り
かぶった。
ぱぁん!!
どよどよどよっ!!と更にギャラリーがざわめく。当然だ、不遜なる人間の女が、こともあろうに魔王の頬に平手打ちを
かましたのだ。流石の魔王も反応が出来ないらしく、恐らく封印布の下の目を瞬いていることだろう。
「馬鹿にしないで下さる? 私、誰かの代わりに抱かれるなど真っ平よ。私を通して、他の存在を見透かさないで頂戴」
「こ、この無礼者が!」
「魔王様に何たる侮辱―――」
「く…ははははは!」
焦りと怒りを露にする側近達を尻目に、魔王は大声をあげて笑った。人間に見透かされる程、今の自分はあからさまなの
かと。
「すまなかった。非礼を詫びた上で、改めて請おう。お前を我が妻に迎えたい」
「あら、私自身が魔王様の御眼鏡に適いまして?」
「無論」
「ならば受けましょう。光栄ですわ、魔王。貴方の子を身篭るのも悪くなくてよ」
今度は笑顔で差し出された手を、恭しく魔王は取り、二人で奥の部屋へ向かった。勿論、呆然とした全魔界の公爵達を置
いたまま。





「…貴方の思い人は、天使なのかしら?」
闇の褥の中で、不意にイヴァーヌが口を開いた。
「何故そう思う?」
「…達した寸前、かの有名な識天使の名を呼んでいてよ」
「それは…すまなかったな」
不満げに口を尖らせる女に対し、ばつが悪そうに魔王が詫びる。すると耐え切れぬというようにイヴァーヌは笑いを零し
た。
「私の中の<魔王>のイメージが粉々に砕け散ってしまったわ。ベッドの中でもお優しい上に、他の相手を思ってやまな
いなんて」
柔らかな肢体を捩り、魔王の肩口に擦り寄る。やはりそれを優しく抱き寄せながら、魔王は呟いた。
「…お前は俺が、恐ろしくないか」
「今のままならば。されど聞いた事はありますわ。その布は恐怖の封印、剥がれた姿はその者の最も恐ろしい姿に変わる
と」
「見てみるか」
「興味はつきませんわね」
僅かに身を起こした魔王の手が、布に触れる。イヴァーヌの視線が動かないことを確認してから、魔王はその布を僅かに
ずらした。
「――――ッ!!」
息を呑む音が聞こえ、すぐにそれを戻す。ふ、と安堵の息を漏らす女をそっと胸の上に抱き寄せる。
「…何が見えた?」
「……年老いた私が。続いて、力に屈する私、心の折れた私、忌まわしき私全てが重なって見えたわ」
「お前が恐ろしいのは、お前自身か」
「それ以外に恐ろしいものなど存在して?」
どれだけの恐怖を味わったのか、顔を青白くしながらも気丈にイヴァーヌは笑った。
「恐怖とは所詮、自らの心が生み出す幻。それ如き、噛み砕けなくてどうしろというの」
「お前は強いな」
「今頃お気づきに?」
「否、改めて思った」
くく、とどちらからとも無く喉を鳴らして笑った。布の下で瞑目し、魔王は一人想う。
――――あの時、恐怖を見せたあいつを、止める事が出来なかったのは。
――――俺自身が、あいつの拒否を恐れたからに相違あるまい。
――――お笑いだ。恐怖の根源である自分が、今更何を恐れると?
「イヴァーヌ。力を貸して欲しい」
「どちらへの扉を開きましょうか?」
聡い一番新しい妻は、夫が望むままの問いを返した。布の下からでもしっかりと視線を合わせ、魔王は決断を口に出す。
「天界へ」






滑らかな光沢を放つ床に、三本の線がするすると円を描いていく。発進源はイヴァーヌの細い指に挟まれた三本の口紅だ。
「お前まで来る必要は無いのだがな」
「あら、知的好奇心を満たせるのなら何処へでも行きましてよ?」
丁寧に最後の呪印を書き込んで、イヴァーヌは顔を上げて自分の夫に笑う。
「それに私、悪魔より天使の方が嫌いなのよ。大義名分がある分、煩わしくて」
理を破壊することを生業とする魔術師は、これで終わりとばかりに優雅に髪を掻き上げる。成程と頷き、魔王も法円の中
に入る。
「丁度良い喧嘩の相手ということか」
「遠慮などいらないのでしょう? ―――参りますわよ」
す、と手で複雑な印を組み、イヴァーヌは朗々と呪文を読み上げる。遥か天空の彼方、聖なるドミニオンへ繋がる扉を開
く魔法を。
「来たれり、来たれり。我ら<鍵の一族>の名に於いて、全ての時と空は我らが僕。遥けき空、天への扉、我が手によっ
て開きたまえ。我が名はイヴァーヌ・カーライト! この名の下に扉を閉ざすことは許されじ!」
声に呼応して、陣が光を放つ。自らの意識が飛ぶ、と感じた瞬間、魔王はしっかりと天を見上げて見据えた。
――――必ず会いに行くと、誓いの言葉を胸のうちでだけ呟いて。






瞼が濡れて重いことに気づき、ミカエルは目を覚ました。
眠り続けなければいけないのに、気がつけば目を覚ましてしまう。ゆっくりと身を起こし、瞼をくしくしと擦った。
<…まだ、忘れられないのか>
酷く優しい声が、空間に響く。ここは、生まれてからずっと自分が眠っていた樹の揺り篭ではない。主を疑った罰として、
この何も無い空間で眠り続けることを命じられた。再び戦が起こった時は出られると聞いたが、ミカエル自身は出たくな
かった。
戦に出ればまた、全てのものを滅ぼさなくてはいけない。たとえ主に逆らうことになっても、それだけはどうしても嫌だ
った。
―――もう一度、あの男の命を奪うために動かなければならないなど、悲しすぎる。
<何が貴方をそうさせるのか。忌まわしき魔王の何が、貴方を苦しめるのか>
響く声は、やはりとても優しい。生まれてこの方、疑うことなど知らなかった主の声。
「申し訳、ありません…それでも我は、」
何も無い空間に寝転がったまま、ミカエルは呟く。
「あんなに優しい者を、傷つけることなど出来ません…」
起きているのが辛くて、自然に瞼は下がっていく。
<可哀想に…ゆっくりお休み>
頭を撫でてくれる感触はやはり優しいのに、あの時彼が撫でてくれた掌にはとても敵わないと思った。
それが申し訳なくて、何より彼の手を傷つけてしまったことが悲しくて、眠りに落ちる寸前に天使はもう一度涙を零した。





「第3防衛ライン突破されました!」
「踏み止まれ、堪えろ! ―――うわあああっ!!」
ドゴーンッ!!
幾度目かの城門を一振りの剣と一握りの拳で叩き割り、魔王と魔術師は走る。
「弱いですわね。これぐらい、ブラック・コートならば無傷で突破してみせてよ」
人間の退魔部隊の一つを名指しして、イヴァーヌは不快そうに鼻を鳴らす。弱さというのは彼女にとって罪悪なのだろう。
一方魔王は何の感慨も見せずに、愛刀を振って血を落とした。
「この辺りまでは序の口だ。いずれ、大天使達が現れるぞ」
「相手にとって不足は無くてよ」
新しい呪印を両手に刻み、不敵に笑う妻に布の下から笑い返し、再び走り出す。それを止めるため、天界のあちこちから
天使達が舞い上がり、空を埋め尽くした。何万という数を目の前にしても、二人の歩みは止まることが無い。
地上の敵を拳に乗せた魔力で黙らせながら、イヴァーヌが叫ぶ。
「魔王! 全てを薙ぎ払いなさい! 貴方の欲するものを手に入れる為に!」
「言われずとも―――」
ばさり、と12対の翼が開く。天に舞い上がった黒き王は、その剣を天に掲げる。
「―――そのつもりだ!」
剣が纏う黒き刃を、天に向かって薙ぎ払う!!
ズガガガガガガッ!!
剣圧とその魔力の余波だけで、天の人垣が切り裂かれた。





ずん、と空気が揺れる音がした。
「―――…?」
外的要因で目を覚ましたのが初めてで、不思議そうにミカエルは辺りを見回す。
周りは何ら変わりなく、無音と無色の空間。それなのに何故か、空気が緊張しているような気がして、落ち着かずに立ち
上がる。
「――――魔王…?」
確信があったわけではない。ただ、その名前を呼んだ。
自分に変化を齎す存在を、彼以外に知らなかったから。




「―――!」
不意に魔王が足を止めた。先行しかけていたイヴァーヌもそれに倣う。
「空牢だ。この辺りに間違いない」
「空間の檻? …駄目、私には感じ取れませんわ。綻びがどこかは解って?」
「―――30,128,670。任せた!」
「心得てよ!」
巧妙に隠された綻びの空間座標を素早く演算すると、そこを狙ってイヴァーヌが再び方陣を描く。それを止めるかのよう
に、虚空からメタトロンを初めとする大天使達が翼を閃かせ、二人に殺到する。
「愚かなる魔王よ! 我らが主が定めし盟約、破るつもりか!」
「俺が魔の体現者であるならば当然のこと! お前達も天の御使いであるのならば、止めて見せろ!!」
宣言と共に、封印の布を破り捨てる。天使の殆どは恐怖に慄くが、イヴァーヌは手を止めない。彼女の意志の強さと誇り
が、恐怖に打ち勝とうと必死に戦っている。その強さがやはり好ましかった。
恐怖を堪え舞い降りてくる大天使に、魔王は容赦なく滅びの刃を振るった。





ずん、とまた空気が震えた。
「一体、何が…」
途方に暮れて、ミカエルは見えぬ天を仰ぐ。自らの意思では決して出ることの出来ない檻。果ての無い筈の空間の、ある
一部が不意に歪んだ。何か力場によって、捻じ曲がった空間が元に戻ろうとしている。まるで、鍵穴にぴったり嵌った鍵
が回るように。
「―――何だ?」
その場所にミカエルが駆け寄ると、恐らく向こう側にいるのであろう相手の声がした。
『識天使よ、聞こえて?』
「誰だ?」
『私は、魔王の妻。夫の願いを叶える為、貴方を解放しに来ましたわ』
「魔王の…魔王がここにいるのか!!?」
『…ええ。貴方の為に血を流しているわ。それが申し訳ないと思うのならば、協力なさいな』
向こう側の相手としては、少々意趣返しのつもりで嫌味な名乗りを上げたつもりだったのだが、聞こえてきた答えが余り
にも切実で、魔王のことだけを案じていて拍子抜けたらしい。僅かな沈黙の後、真実を告げた。
「何をすればいい? 魔王に会いたい…助けたい…!」
『私が出来るのは、空間に穴を開けるだけ。それを広げるのは貴方の力。主に逆らっても後悔がないのなら、ここを思い
切り突き破りなさい!』
苛烈な言葉に、一瞬だけ天使は息を呑んだ。主に逆らうなど、許されることではない。今までの自分を全て否定してしま
うことになる。――――それでも。
「ありがとう、魔王の妻よ。離れていてくれ―――全力で放つ!」
手の中に現れた光の銃身を、空間の裂け目に向けて、躊躇わず引き金を引いた!






パァン!!
最後の大天使の息の根を止めた時、何かが割れる音がした。はっとなって振り向くと、流石に消耗したらしく座り込んで
いるイヴァーヌの傍に、待ち焦がれていた光沢の翼が居た。
「――――ミカエル…!」
名を呼ぶと、その顔は泣きそうに歪みながら微笑んだ。しかし駆け寄り手を伸ばそうとすると、やはり怯えを見せて後退
る。
「逃がすか…!」
しかしもう、手放すつもりは無かった。服の裾を掴み思い切り引っ張ると、両の腕でかき抱いた。
「や…駄目だ、魔王、またお前が傷つくっ…!」
「案ずるな。この1000年、俺が安穏と過ごしたと思っているか」
その言葉に答えるように、確かに触れている筈の魔王の地肌には火傷どころか傷一つつかない。魔の者でありながら聖な
る力を御し防ぐ等、本来ならば非常に難しいことだが―――魔王にとってはそう難儀でもあるまい。
「…良いのか…? もう御前に触れても、平気なのか…?」
それに気づいたミカエルも、おずおずと手を伸ばしてくる。その仕草に、ふと魔王の中で何かが閃く。
「お前…だからあの時、俺の手を取らなかったのか」
「だって…痛い、だろう」
困ったように見上げてくる腕の中の顔が、たまらずに抱き締めた。
「痛くない、と言った筈だ…」
「うん…」
暖かい腕の中であやすように頭を撫でられ、うっとりと目を閉じる天使が愛しくて、離す気がしなかった。
「…………つまり、貴方は恋人同士の勘違いなすれ違いで、1000年もずるずると迷っていた訳かしら?」
呆れたように二人の姿をずっと見ていたイヴァーヌが、溜息と共にしょうもないとすら言える事実を問う。
「…言ってくれるな」
「言わせて貰わなければ腹の虫が納まらなくてよ。短き命の人間だからこそ言わせて頂くわ、なんてとんでもない時間の
無駄かしら!」
「耳が痛いな…」
「御前が、魔王の妻か? おかげで助かった、ありがとう」
「あら、ご丁寧にありがとう。こちらこそ、程好い腕試しの場を用意して頂けて感謝してよ」
「腕試し? 良く解らないが…流石、御前の妻だ。御前に負けない程美しいな」
魔王の腕の中でにこにこ笑いながら自分の容貌―――恐らく魂の色も含めてだろうが―――を素直に褒められて、流石の
魔術師も完全に毒気を抜かれる。こんなにも純粋な天使だからこそ、魔王の心を射止めることが出来たのだろうと何とな
く納得した。
ほんの少し悔しいと思ったのは、例え僅かな間でもこの魔王を愛しいと思ってしまったからか。そしてそれ以上にこの二
人を祝福したいと思ったのは、この二人をもう離してはならないという奇妙な確信からか。
複雑な思いを息を吸う事で飲み込んで、改めてイヴァーヌは満面の笑顔を見せた。
「で、これからどうするのかしら? 開けというならいますぐに魔界への扉を開きましてよ?」
「否―――、逃がしては、くれまい」
確信の篭った声で、魔王が呟く。その腕の中の天使の体が緊張する。何かと魔術師が問う間もなく、本来ならば曇ること
など有り得ぬ天界の青い空が―――暗雲に覆われた。


<まだ―――逆らうか、我が子供達よ!!>


稲光が世界を劈き、彼らの足元に落ちてくる。咄嗟に魔王は両腕に二人を抱え込んで飛び退った。
「今の声は―――」
「主よ、ご慈悲を! 決して逆らう気は―――」
「止せ。お前は兎も角、俺は従う気の方が無いぞ」
何が起こったのか咄嗟に理解できなかったイヴァーヌに対し、ミカエルは天を仰いで許しを乞うが、それは魔王の言葉に
止められた。彼だけは不遜な態度を崩そうとせず、ただ空を見上げている。
<魔王よ! そなたの役目は混沌の維持、決して秩序を全て破壊することではない! 天界を全て滅ぼす気か!>
「これは異な事を仰る。破滅と混沌を作り出すのが魔王たる所以、何故そのように作った貴方がお止めになる!? 既に
この世界の全ては、予定調和を超えたところにある!! 本来有り得ぬ人の身が、ここまで辿り着けたことが何よりの証
!」
「主…まさか、この声が?」
自分の腰を抱く腕に力が入り、イヴァーヌも冷静さを取り戻す。天に響く言葉は、それを咎めるかのように今度はイヴァ
ーヌに降り注いだ。
<人間よ! 全ての世界の理を打ち壊すつもりか! 我が末子でありながら私への感謝を忘れるか!>
「…ご挨拶ね。子供が親に感謝すべきたった一つの事は、この世に生まれさせてもらった事実のみ。その他の感謝は育て
られてこそ浮かぶモノ。私、貴方に育てられた記憶は一欠けらも無くてよ?」
圧倒的な力の差を感じていても、彼女の心に恐怖は浮かんでこなかった。この世で一番恐ろしいものは、既にこの目にし
たことがある。今更何を恐れることがあろうかとばかりに、不敵に口の端を持ち上げて、夫と共に天を睨みつけた。
その揺るがぬ二対の視線に、ミカエルの震えも止まった。畏れることは何も無いのだと、彼は自らの翼を開く。
<我が愛でし子、ミカエルよ! そなたまで私に逆らおうというのか!!>
「主よ―――、逆らうつもりなど有りません。ですが我は貴方よりも、魔王と共に在る事を望んでおります! その事実
だけは、捨て去るわけにはいかないのです! どうか、ご慈悲を―――」
<なんて事だ―――なんて事だ! こんなにも失敗作を増やしてしまった! 廃棄して、新しく全てを作り直さなければ
―――!!>
雲がゆっくりと割れていく。そこから、光の塊としか形容できない何かが、降りてくる。全てのドミニオンを、天使を、
悪魔を、人間を、作り出した存在―――創造主たるそれは、宙に浮かぶ3人に向かって高度をどんどん下げていく。
「語るに落ちたな。思いのままにならぬ玩具は壊すか」
魔王は躊躇い無く、剣を抜き放つ。
「貴方のやろうとしている事は、0点の答案を燃やす子供と同じでしてよ。燃やしても結果は変わらないのに!」
魔術師は媒体の口紅を取り出し、戦闘用の結界を体に紡ぎ出す。
「主よ…我は貴方と同じぐらいに、この世界全てのものを、愛しております…例え貴方が相手でも、その破壊を見逃すわ
けにはいかない…!」
天使は涙を堪えて、自らの武器を天に向けて構えた。
闇の刃が、紡がれた炎が、撃ち出された光が、創造の力とぶつかり合い―――――――――――






そして、世界は砕け散った。













×××:

創造の神は、秩序と混沌を作った。そしてその余りを使って、物質を作った。
混沌の王として、全ての恐怖の根源を作り出した。それ故にそれは、神への感謝を忘れた。
物質の王として、脆弱ながらも無限の可能性を持つものを作り出した。それ故にそれは、年月がかかれど神の元へ辿り着
いた。
何より、自分の最も愛する子に、何者にも負けぬ力を与えた。それ故にそれは、神を貫いた。
自業自得と笑うは容易いが、それはすべて、誰にもあずかり知らぬこと――――





「…これから、この世界はどうなるのかしら」
どことも知れぬ空間で、魔術師は一人ごちる。その口調は、呆れているようにも楽しんでいるようにも聞こえる。
「さて、どうするべきか」
同じくその場に立っていた魔王は、可笑しそうに笑った。彼にとっては、最も大切なものが腕の中に居れば、他に心を砕
く必要などないのだろう。
「…消えて欲しくない。天界も魔界も…物質界も」
その魔王の腕に大人しく納まっていた天使は、ぽつりと呟いた。誰よりもこの世界全てを愛している彼にとっては、それ
は当然のこと。
「あら、魔王を新しい創造主として据える気? 悪くはないでしょうけれど」
「御免被る。だが―――安心しろ。世界をそう簡単には消さん」
愛しい天使を抱き寄せて、宥めるように耳元で囁くと、安堵の息を吐いて頷いた。
「世界は全てそのままに。主が居なくともこの世が持続することを、全ての者が証明する世界を!」
魔王の宣言に応え、創造主の魔力の残滓は、砕け散った世界を、亡くなった命を、削られた大地を全て――――あるべき
ままの姿に戻していく。
誰も知らぬままに世界が生まれ変わる。
知っているのは一人の魔王と一人の天使、そして一人の人間だけ―――――


























NOW:

「…ぅーわぁ…そんなのあり…?」
望月市の駅前、優しい音楽が流れるカフェ・朧月夜。その片隅の席に座ってクランベリージュースを飲んでいた上総くゆ
は、目の前に座る男がたった今締めた昔話に、ぐったりと机に突っ伏すことで応えた。
「あり、らしいですねぇ。私も母から寝物語に聞かされたことなので、真偽の程は解りかねますが」
こちらはあくまで優雅に紅茶のカップを手に取り、キールレイス・カーライトは笑顔で自分の義兄に向かって微笑んだ。
「あのヒトがその手の冗談言うわけないじゃん〜…」
「ですね。神殺しをしたとうきうきしながら繰り返し話して頂けましたし」
今は離れて暮らしている母のことを思い、魔王の末の子であるキールレイスは懐かしそうに片眼鏡も下の目を細める。く
ゆの方は不満げに、ストローを使って残り少なくなったジュースをかき回している。その反応が少し意外で、キールは首
を傾げた。
「何かお気に触ることでも?」
「んーにゃ。俺が物凄い親父似だってことを改めて理解して、落ち込んでるだけ」
「ははは、成程」
今更、魔王の子供達にとって創造主の有無等何の価値もない事実だ。天界と魔界は変わらず存在しいがみ合い、いつかま
た戦いが始まるとしても…それは今ではない。少なくとも魔王の正妻が生きている限りは。
「では、兄上は此度の宴には参加しないということで、宜しいですね?」
「ん。正直めんどい。リリ姉がお袋の代理で張り切ってたから問題ないだろ」
「了解しました」
魔王の妻達が一同に会する宴だ。子供達も招待されさぞかし盛大に行われるだろうが、それよりも大切なモノが出来てし
まい、魔王の子息としての地位を捨ててしまったくゆにとっては煩わしいだけだろう。その事を思い、キールは堪えきれ
ぬ笑いを口元に刻んだ。
「…何その嫌味な笑い」
「いえいえそんな。兄上は本当に、父上に良く似ていらっしゃると」
「解ってるから言ーうーなー。あーもうお前本当最近生意気。お兄ちゃん傷つく」
「これは失敬」
優雅に礼を一つして、キールは立ち上がり、くゆも続く。お代はしっかり割り勘にして、店の前で別れる時。
「んじゃ、キール。――――」
くゆが弟の名を呼んだ後に、手を奇妙な形に組む。魔界では良く使われる挨拶の一つで、魔王への敬意を仕草と言葉で表
すもの。キールもすぐに気づき、同じような仕草をとった。まさしく今の心境に相応しい、最大の皮肉にして最高の挨拶
だと思ったので。



「「”―――Blessing of my god!!(我が主なる魔王の祝福を!!)”」」



笑顔で兄弟は別れ、人間の群れの中にお互いを紛れ込ませていった。
天の太陽は変わらず輝くある日のこと――――。





… 長 す ぎ 。
こんなん読む人いんのかー! とこっそり夜空に吼えてしまいました。本当書きすぎです。
シナリオ作ってるとこういう全然使えない裏設定ばかり出来上がってしまい、書きたいけど長いし〜と燻ってたところ、
ありがたくもリクエストいただいたので調子にのったらこの有様です(痛)。
空知たん本当にありがとう。どれだけ楽しめるか解りませぬが受け取ってくだされい。
そしてあづま先輩、キールママン好き勝手に設定しちゃってごめんなさい(平伏)